1981年7月 都心臨海部総合整備基本計画発表
1981年は、ロナルド・レーガンが第40代アメリカ合衆国大統領に就任し、中国では文化大革命が完全に否定され(中国共産党第11期6中全会)、今日に至る道筋が敷かれはじめたという年です。
国内では、神戸市ではポートピア’81が開催され、日本初の新交通システム(通称「ポートライナー」)が、その神戸市で営業を開始し、トヨタ自動車によって発売された高級スポーツクーペ「ソアラ」が社会現象ともいえる話題を呼んだ年でもありました。
この年、発表された「都心臨海総合整備基本計画」にあるヨコハマポートサイド地区は、新しいビジネス拠点としての「みなとみらい地区」に対して、ウォーターフロントに立地する住宅街としてイメージされたものでした。
1988年4月 街づくりのコンセプト「アート&デザインの街づくり」発表
何年かの検討期間を経て、みなとみらい、ヨコハマポートサイド地区ともに、ビジネスあるいは住宅一辺倒ではない、商業や業務とのバランスがとられた複合的な開発を目指す方向軸が採択され、ヨコハマポートサイド地区では、その複合性を支えるもの、つまり住宅と商業、業務といった異なる機能を結ぶバランサーとは何かということが論議されるようになりました。
当時は、例えば「三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)」「3C(カラーテレビ、クーラー、自動車)」を買いそろえるといった物質的な豊かさを求めてきた時代が頂点に達する一方で、心の豊かさを求める志向へと、じょじょに転換が始まった時代でもありました。
そうした時代の要請を受け、機能的に、生活の利便を向上させるだけでなく、和みや居心地などアンビジブルな街の魅力、豊かさを実感てきでるような街をつくる…そうした願いを込めて、1988年(昭和63年)4月、ヨコハマポートサイド地区は街づくりのコンセプト「アート&デザインの街づくり」を発表しました。
しかしながら、そうした街づくりは、国内はおろか、海外にも具体的な先行事例はなく、まさに教科書なきスタートを余儀なくされたものでもありました。確かに、建物のユーティリティ部分や街路などに作品を設置することなどはすでに一般的になっていましたし、「パブリック・アート」という言葉は、当時の再開発事業において、流行語とでもいえるようなものでした。
しかし、それだけでは、地区内に作品を設置していくだけでアートの街になるのか、高名な建築家のデザインした建物が建つだけでデザインの街になるのかという疑問が残ります。
そうしたことから、1990年(平成2年)ヨコハマポートサイド アート&デザイン専門家委員会を設置し(1994年まで)、アート&デザインの街づくりの具体的な像を明らかにするとともに、いくつかの実験的な試みを行っていきました。
…例えば、建物の建設現場自体を作品化する試み、工事現場を囲うフェンスをカンバスにして作品を発表する試み。アーティストと地区内の地権者や市民が一緒になって公園をデザインする試み、また、パブリック・アートとして設置される作品を共同で制作する試みなど、然るべきデザイナーや建築家の方々にそれぞれの建物のデザインが委ねられる一方、そうした実験的な試みのなかから、アート&デザインの街づくりの実像を掴んでいこうという努力が重ねられてきました。


右上の写真は、シューベルク・プロジェクトにおいての足形採取をしているところです。この作品(インスタレーション)は、固まる直前の石膏ボードに足形をつけ、そこに蜜蝋を流し込んだプレートをつくり、それをタイル状に壁に貼付けるというもので、その「足形」採取に、地権者の方や、当時の工事関係者などが参加しました。現在、作品はロア壱番館1階ロビーに展示されています。
下の写真は、1988年当時のヨコハマポートサイド地区の様子を写したものです。まだ、ほとんどが空き地か、あるいは暫定的な利用が行われている状態。一部には再開発事業によってリニューアルされる前の建物も残っています。
この頃は、まだヨコハマポートサイド地区という地域の名称もあまり知られておらず、ここにアート&デザインの街づくりが行われようとしていることも、ほとんど知られていませんでした。
しかし、この頃から「アート&デザインの街づくり」は、一歩ずつですが、確実にその歩みを始めていました。あるときは工事現場のクレーンが,突然ライティングされたとか、また、あるときは空き地にテントが張られ、そこでシンポジウムが行われたり、デザインについての展示会が行われたり、当時は、そうした単発のイベントが行われているだけのように受け取られていたのかもしれませんが、そうしたことを積み重ねていくことによって「アート&デザインの街づくり」の像が明確になっていくことを願って、様々な事業が続けられていました。



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