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ヨコハマポートサイド地区は、旧神奈川宿に隣接する場所でもあります。
旧神奈川宿は、江戸時代を通じて重要な東海道の拠点としてにぎわい、開港後の横浜にあっては
諸外国、政府要人の前線基地のような役割を果たしてきた場所です。
そうしたことから、地区周辺には多くの史跡が点在しており、
また、近代以降、物流の中心としても機能してきた横浜港ならではの施設も数多く立地しています。


洲崎神社

神奈川区 青木町

洲崎神社があるのは青木町。この町名は、この洲崎神社の御神木であるアハキがなまり、青木町になったものといわれているそうです。

祭神は天比理刀咩命(あめのひりのめのみこと)。安房神社祭神天太玉命の后神であるとされる神様です。

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中世以降、江戸湾にあって隆盛を誇った港には必ずある神社で、起源は安房の国、現在の千葉県館山市 洲崎(すのさき)の御手洗山の中腹にある神社を起源とするものです。
石橋山の合戦に破れ、安房に逃れた源頼朝が信仰した神社として知られ、この洲崎神社も、源頼朝によって安房から勧請されたもの。以来、幕府直轄の神社として手厚く保護されてきました。




この神社には、神社前の浜から神輿を海に乗り入れるという「お浜下りの祭事」という儀式が継承されてきましたが、それも安房本宮の本霊とこの神社に祀られた神様が、海上で会合をするためのものであるとされています。

L1010252.jpg神奈川トヨタmyXビルから首都高横羽線高架下を横断したところに、その「お浜入り祭事」のことを伝える石碑が立っています。埋め立てられるまで、このあたりまでが波打ち際だったということなのだと思います。




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普門寺:イギリス軍士官宿舎跡

神奈川区 青木町

生麦事件を切っ掛けに、横浜にはイギリス軍とフランス軍が駐屯するようになりました。そのうちのイギリス軍が駐屯したのは、山手の丘、現在の岩崎博物館から山手聖公会教会のあたりだったといわれていますが、その士官宿舎に充てられたのが、この普門寺です。やはり東海道の重要な宿場であった「神奈川宿」に、江戸との関係を踏まえ、拠点を確保しておく必要もあったのでしょう。

真言宗智山派に属する普門寺は、洲崎大神の別当寺です。別当寺というのは、まだ、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、そうした縁から山号を「洲崎山」と号したようです。
寺号の「普門」は、観音菩薩を本尊とするお寺にしばしば号されるもので、多くの人々に門戸を開いているというような意味があるようです。




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幕末当時は、本殿他に客殿などを備えた伽藍があったそうです。

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甚行寺:フランス公使館跡

神奈川区 幸ヶ谷

L1010178.JPG江戸幕府は1854年(安政元年)から1858年(安政5年)にかけて、アメリカ、オランダ、イギリス、フランスと通商条約、和親条約を結びます。

それを受け、1859年(安政6年)7名の随行員とともに、初代駐日公使であったドゥシェーヌ・ド・ベルクールが来日。条約上、各国公使には江戸駐在が認められていたので、最初にフランス公使館が設置されたのは品川(現・三田四丁目)の済海寺でした。
しかし、その済海寺では、ベルクールの随行員の一人であるイタリア人警備員が攘夷派の武士たちに襲撃される事件があり、また、イギリスなど他国の公使館にも同様の事件が続発していたので、各国公使協議の上、幕府への抗議の意味を含め、品川宿から、この神奈川宿・甚行寺へ公使館を移転させたという経緯がありました(1861年/万延2年)。




1864年(文久3年)、ベルクールの後任としてレオン・ロッシュが来日すると、フランスと横浜の結びつきはますます強くなります。
幕府は横浜弁天町(現在の関内・弁天通あたり/下岡蓮杖が写真館を開いたのもこのあたり)に横浜仏語伝習所を開設し、ロッシュ自身が、そのフランス側の責任者になります。

その後、各国外交が維新派を支援していく中、ロッシュは親幕府外交を貫き、幕府のパリ万博参加を支援しますが、間もなく彼の外交政策を支援していた外相が罷免され、ロッシュ自身も公使を解任されてしまい、1868年(慶応3年)、帰国してしまいます。

残念ながら、関東大震災、横浜大空襲と、二度の災禍に遭い,建物から往時を偲ぶことは難しい現状にありますが、幕末の動乱期をこの地から見守り続けた古刹であることにかわりはありません。


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高札場(復元)

神奈川区 神奈川本町

高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のこと。庶民に法令を徹底するために設けられた公営のメディアのようなものでした。
神奈川県内東海道筋の9つの宿場には、それぞれ1カ所ずつの高札場があり、いずれも江戸から京都に向かって街道の右側に設置されていたそうです。

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神奈川宿の高札場は、瀧之橋のたもと(神奈川警察署西側)にあったそうですが、残念ながら今は失われてしまっています、しかしながら神奈川地区センター(神奈川本町)前に、当時の資料から復元された高札場があります。
間口5m、高さ3.5m、奥行1.8m。土台を石で固め、その上を柵で囲んだ内部に数枚の高札が2段に掲げられ、風雨を避けるために屋根が設けられています。




L1010839.jpgまた、神奈川地区センター正面の道には神奈川宿を彷彿とさせる松並木が、金藏院、神奈川郷の総鎮守としての信仰を集めてきた熊野神社、高札場、開港当時アメリカ人宣教師の宿舎だった成仏寺を結ぶかたちで再現されています。
地区センターには、当時の神奈川宿を再現したジオラマも展示されています。

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松並木(復元)

神奈川区 神奈川本町

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金藏院、熊野神社、高札場、成仏寺を結ぶ神奈川宿の松並木。
横浜市指定の名木・古木のイチョウの木もあります。


横浜市中央卸売市場

神奈川区 山内町

大正時代の初め、第一次世界大戦によって欧州の生産拠点が破壊されたこともあり、わが国には、今でいうバブル景気のような状態がありました。

しかし、今日のように消費者物価をコントロールするシステムがなかったこともあり、物価の高騰が市民生活を圧迫するとともに、業者間の取引の乱れや過度の競争などが発生し、大都市圏を中心に、本格的な公営市場設置を望む声が強くなっていました。

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そうしたことを受け、1923年(大正12年)1月「中央卸売市場法」が制定され、当時の横浜市はただちに市場建設のための調査、計画立案の作業に入りました。




同年9月には関東大震災が発生し、計画は一時中断を余儀なくされますが、1926年(昭和2年)には工事に着手。1932年(昭和6年)2月、全国で3例め、東日本では初めての中央卸売市場として、現在の地(神奈川区山内町)に開場したのが「横浜市中央卸売市場」です。
以来、70余年にわたって、青果部、水産物部及び鳥卵部を有する総合市場として、横浜における生鮮食料品等の流通拠点となっています。

施設の老朽化や過密化に対応するため、水産物部は1986年(昭和61年)9月に、また青果部は1992年(平成4年)3月に建替えが行われました。

LinkIcon横浜市役所webの市場のページ

LinkIcon横浜市中央卸売市場関連事業者協同組合


まだまだご紹介したいところがあります。随時更新していきます。




東海道神奈川宿歴史の道

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かつて神奈川宿があったのは、ヨコハマポートサイド地区とは目と鼻の先程の場所になります。
しかし、関東大震災、第二次大戦時の空襲などで、多くの歴史的な遺構が失われ、急ピッチに行わざるを得なかった復興計画のなかで、旧東海道がどこを通っていたかも判らなくなってしまったという現状があるのも事実です。
そうした中、神奈川区役所は、それでも尚、継承されてきた遺構を再発見し、点と点を結びながら、再び東海道と神奈川宿の存在に光を当てようと、様々な事業を行っています。上の写真は、そのガイドマップの表紙ですが、これもそうした事業の一環としてつくられたものです。

その事業を紹介する区役所のwebサイトのページには、「歴史や伝説の残る街は、その街そのものが生きた歴史資料館のようなものです。」という一文がありました。

LinkIcon神奈川区役所のwebサイト